自分に戻る

興味のあることを学びながら自分を見つける

清濁併せ呑む

お弟子さん講座の第3回目が終わりました。
その中で印象的すぎた一面を書こうと思います。

 

根本師匠のデモセッションでロープレを見せてもらって、その方はあと一歩のところで裏切られるや成功を逃すってことを繰り返していてそのパターンを手放し、仲間と共に成功する道を開くという趣旨だったんだけど・・・・
私は権威の存在としての人がいてその人に近づいて行って拒否されて、また戻って、また近づいて行くところを見ていて、私は社会と私との関係性をそこに見たわけです。
私はやはり社会への恨みや怒りが消えてないんだなと思いました。
すごく思考的なんだけど、私ははじめは泣いていたけれど、
待てよ、これってその社会への恨みじゃない?ってふと思ったわけです。
私の中に社会への恨みがあるとして、その社会で私が身を粉にして働くって屈辱的すぎない?
そこに私自身の無価値感が強いから根性で自分一人でやるしかないと思ってやるじゃん?
本当に地獄ですか、ここはってなるよね(笑)

社会がないと生きていけない自分がその社会を恨んでいて腹が立ってるなんて・・・・・
薄々たしかに気づいてたことであったけど、やっぱり社会が嫌いだった。なんなら日本なのかもしれない。

これはもう10年ものの熟成させた感情なので(笑)
熟成したワインのように飲んで美味しけりゃ良いけど、怒りが出たあとで本当の感情に出会うのなら、そこに一生懸命に熟成した感情はどんなものなのだろう。
一生懸命に握りしめて、たまにそれを自分の燃料として、自分を責めるためにとせわしなく、時に自分に気づかないところに隠したりと。

 

助けてと人に言えず

もう許してくださいと何もわからず許しを請うたり

人生を悟ったふりをして人を横目に見ながら

目の前にいる自分は血だらけで


心の底からもういい、もういいよ、やらなくて大丈夫と自分に対して思いました。
自分に対してそりゃ辛いよねと心底思いました。
口癖が出家したい、最近では解脱したいだったのも仕方ないよねと。
盲点だったのは私は怒りの対象は人間だと思い込みがあったことです。
まさか社会という実体がないものに対してだったとは。
怒りの対象が分かったなら、あとはお恨み帳に挑もうではないか!

このことを泣きながら考えていて、お弟子さんの仲間がいて良かったと思いました。
私がどうなったとしてもお弟子さんという仲間が私の居場所として居てくれるからです。

 

さて、お恨み帳に書きまくりますかね(笑)